平成29年9月20日発行
目次
ご挨拶 恒石道男 1p
第70回全国盲人福祉大会参加報告 恒石道男 2p
日盲連徳島大会「生活分科会」報告 畠山俊惠 3p
全国盲人福祉大会徳島大会 山崎文子 5p
日盲連徳島大会に出かけ観光も楽しみました 片岡義雄 6p
安岡一誠先生のこと 松岡弘 7p
ピンピンコロリはちょっと待って 沖郁子 8p
思い出すままに(6) 溝渕健一 10p
鳴子抄鑑賞 小澤幸泉 11p
共助の地図 障害者と考える震災ハザード 13p
事務局便り 14p
編集後記 15p
ご挨拶 恒石 道男
8月の猛暑をやっと乗り越え、朝夕の秋風にホットしているこの頃ですが、皆さんい
かがお過ごしでしょうか。
異常気象によるものなのか、今年も各地で豪雨被害がありました。今の時期は台風シー
ズンです。穏やかに季節が巡ることを祈るだけです。
さて、去る4月16日に県視協総会が行われ、閉会後には恒例の懇親会がグドラックで
あり、交流を深めました。総会では、28年度事業報告及び決算報告、29年度事業計
画案及び予算案が討議され原案通り承認されました。
その他、執行部からの提出議案について少し触れておきます。
まず一つ、今年度から幡多支部をおくこととします。
2つ目 賛助会員をおきます。
3つ目として、会則の変更を行います。変更または追加内容は以下の通りです。
これは、総会での意見をもとに6月11日の理事会で決定したものです。
第3条 県視協は、必要に応じて支部組織を置くことが出来る。
第6条 (2) 賛助会員 本会の趣旨に賛同し、本会の活動を支援しようとする者
第12条の役員の項において、監事であったものを監査役と変更することとしました。
第24条 総会において、やむをえず欠席する会員は、その旨を事務局に通知しなけれ
ばならない。通知なく欠席した会員については、総会の決議に同意したものと見なす。
以上です。
第70回全国盲人福祉大会参加報告 恒石 道男
今年度の大会は5月26日から28日の3日間、徳島市で開催されました。
初日の評議員会とスポーツ競技会について報告します。
JRホテルクレメント徳島において、定時評議員会が開催され、その中で、竹下会長は、
1.視覚障害の認定基準が改正されようとしており、視力の判定をこれまでの両眼の視
力の和から良い方の眼を基準として判定する方向で議論が始まっている。
2.第4次障害者基本計画が来年4月からスタートするが、この基本計画の内容を注視
する必要がある
3.外出時における同行援護事業が始まって5年を過ぎたが、地域間格差は未だ解消さ
れていない、と述べた。
続いて、平成28年度事業報告、決算報告、平成29年度運動方針、理事・監事選任な
どの議案が審議され、承認された。
事業報告の中で、竹下会長から、自営業者に対する職場介助者について、協同組合方式
による可能性について検討を進めていること。
往療時などにおける同行援護の利用についても検討を進めていることが追加報告された。
また、報告事項として、
1.定款細則の改正について。
2.あん摩師等法19条訴訟におけるはがき陳情、署名活動ならびに募金協力のお願い。
3.マッサージ診療報酬についての要望に伴う更なる署名活動協力のお願い。
4.あん摩師等法制定70周年記念の集いの開催についてなどが、示された。
次に、スポーツ協議会代表者会議が開催され、濱野会長は、
1.昨年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けての要望書をスポーツ
庁と大会組織委員会に提出した。
2.今年、パラリンピックに向けての視覚障害者スポーツフェスティバルを計画し開催
に向けての取り組みなどについて触れた。
次に、昨年度の全国障害者スポーツ大会グランドソフトボール競技で優勝した広島県
チームが表彰された。
続いて、議事に入り、平成28年度事業報告ならびに決算報告、平成29年度事業計
画ならびに予算、また、議案改正について審議され、原案どおり承認された。
また、来年度の全国障害者スポーツ大会から、STTの障害区分の変更が行われ、アイ
マスクを着用することで弱視者も参加可能になるという見通しが報告された。
第2部の研修会では、リオ・パラリンピック柔道男子66キロ級銅メダリストの徳島県
藤本聰氏の講演が行われ、メダルを回覧し、大会による大きさや重さの違いについて参
加者が確認した。
藤本氏はこれまでの経験から「継続は信なり」に至ったと述べ、また東京パラリンピ
ックに向けて大切なこととし
て、組織力の強化や若手の育成などの必要性を述べて、講演を締めくくりました。
日盲連徳島大会「生活分科会」報告 畠山 俊惠
日盲連徳島大会の分科会は5月27日(土)の代表者会議の中で行われました。生活
、バリアフリー、職業の三つの分科会がありましたが、私は「生活分科会」に参加しま
した。
そこで話し合われた議案は、日常生活用具、歩行訓練、65才以上の介護保険問題、
障害者総合支援法、同行援護、情報提供、代読代筆、高齢者、災害、医療と福祉、その
他と多岐にわたり、各地域から出された切実な要求は41項目もありました。
座長が提出議案を読み上げ、その後フロアーからの補足説明や意見を出してもらい、
拍手で採択という流れで行われました。
日常生活用具や補装具の給付については、かなり地域間格差がある。それをなくすた
めには、国がある程度基準を示して指導してほしいと言うことで採択されました。
歩行訓練については、歩行訓練士を「国家資格」にして増員してほしいと言う意見が
多く出されました。
65才以上の介護保険問題では、自治体の担当者やケアマネージャーが視覚障害者の
ことを正しく理解していないのではないかと言う声をよく聞くので、国の方から強く働
きかけてもらいたい。65才以降も障害者総合支援法によるサービスを受けられるよう
にしてもらいたい。65才を過ぎれば即介護保険ではなく、健常者と同じように自分が
必要だと感じたとき、介護保険を申請できるよう要望したい。今の「介護認定調査項目
」では、視覚障害者のほとんどが要支援になってしまうという大きな問題があるので見
直してほしいなど、たくさんの意見が出されました。この問題は執行部で再度検討して
陳情ということで採択されました。
金融機関での預金の口座作成とお金の出し入れについては行員の代筆が認められてい
るが、「書類は全て行員が代筆できるようにしてほしいと言うのはちょっと無理がある
。」と竹下会長がおっしゃいました。執行部でその部分を修正し、「本人の意思を尊重
して行員が代筆」という文言を加えて陳情ということになりました。
最後に、執行部から日盲連の名称を「日本視覚障害者団体連合」(通称「視団連」)
と変更したいと言う提案がありましたが、これはもう一度執行部で検討してもらうとい
うことで、採択は見送られました。
日盲連の全国大会が徳島で行われると言うことで私も初めて参加させてもらいました
が、26日はヘルパーさんに案内してもらって市内の観光を楽しみました。
午前中はみんなで人気の「ひょうたん島クルーズ」に行き、説明を聞きながらの遊覧
船を楽しみました。
昼食後、恒石会長は評議委員会に出席のため会議の会場へ向かい、山崎文子さんと私
とヘルパーさんは「十郎兵衛屋敷」に行きました。人形浄瑠璃の開演前に運良く人形に
触らせてもらうことができ、どんな風に操っているのか丁寧に説明して下さいました。
阿波踊り会館では、阿波踊りのまねごとも体験できて、とても楽しかったです。
お土産売り場に行くと、藍染めや大谷焼などとても手が出ないような高価な物がたく
さんありました。人形浄瑠璃や藍染めなど、徳島ならではの文化に触れ、いい思い出に
なりました。ありがとうございました。
全国盲人福祉大会徳島大会 山崎 文子
第70回全国盲人福祉大会が、徳島県で開催されました。
26日、前日の雨も上がり、晴天の朝、3人で出発しました。1日目は評議員会で会長
を残した私と畠山さんは、ヘルパーさんの案内で「十郎兵衛屋敷」や「阿波踊り会館」
に案内していただきました。
2日目の27日は、前日と同じJRホテルクレメントで代表者会議が午前中行われまし
た。午後からは各分科会に分かれて、私はバリアフリー分科会に出席しました。
鉄道に関しては、ホームドアの設置を早急にしてほしい。また、ホームでの声かけ運動
、ホームのエスカレーターまでの点字ブロックをつけてほしいなどが出されました。声
かけされた場合は常に感謝の気持ちを忘れず「ありがとう」などお礼を言い、ヘルパー
さんと一緒の場合は丁寧にお断りをするように心がけること。
交差点や信号については、歩行者信号を低くしてほしい。スクランブル交差点にはエス
コートゾーンをつけてほしいなどが話し合われました。
賠償保険については、盲導犬や白杖を持っての歩行中、ぶつかって相手にけがをさせて
裁判になっても訓練を受けた通りに点字ブロックを歩いていれば裁判になっても負ける
ことはない。乱暴に杖を振ったり、杖をもって走ったりしなければ大丈夫ですのでマナ
ーを守り正しい歩行をすること。
その他、JRの特急料金の割引、単独での普通料金を100キロ未満でも半額にするよ
う要求する。
テレビのニュース速報やモザイクをかけてのインタビューを音声化するよう要求するな
どすべて採択されました。
3日目の大会も盛大に行われ終了しました。
日盲連徳島大会に出かけ観光も楽しみました 片岡義雄
去る5月26日(金)から28日(日)にかけて徳島で行われた第70回日盲連大会にか
こつけて観光も楽しむ結構な企てに参加しました。
前日から出かけた恒石会長・山崎文子さん・畠山さん、バスの運転でお世話になった
くすのき荘の岡本さんと吉岡さんを含め参加者は12名。
後発の私たちは27日8時出発。
途中吉野川サービスエリアで休憩し、11時前には阿波十郎兵衛屋敷に着きました。
出し物は「巡礼にご報謝」で思い浮かぶ、あの傾城阿波の鳴門のさわりの部分。
等身大の人形の表情や手足の動きを3人の黒子がさりげなく自然に操作する技はまさ
に江戸時代のハイテクといったところか。
昼食後は本場の阿波踊りの鑑賞。
徳島駅にもほど近い阿波踊り会館は踊りを楽しむホールやグッズの展示販売を行うミ
ュージアム、それに5階からは眉山行きのロープウェイが発着するなど徳島観光のセン
ターとしての役割を果たしているようです。
私たちはホールの最前列に陣取り専属連である「阿波の風」の迫力を堪能しました。
ところで私は今まで、阿波踊りの合いの手は「エライヤッチャエライヤッチャヨイヨ
イヨイヨイ」だと思っていましたが本当は「ヤットサ-ヤットヤット」だそうです。
そして3時からは私がこの旅で一番期待していた「ひょうたん島周遊船」。
まばらに雲を散らした空をうつす新町川の中州をおよそ25分で巡るクルーズ。
近くに徳島県庁を見上げ遠くに眉山を望む風景を楽しむことができ、もし天気さえよ
ければ徳島観光一押しのおすすめです。
ただ「何のガイドもなかったのは残念」と言う声も聞かれました。
宿泊はホテル千秋閣。
いつもならカラオケを交えた大宴会になるところですが今回はおとなしい方ばかり。
それでも会議を終えた3名も加わり、会計でお世話になった豊永さんによる乾杯の後
ゆったりとくつろいだひと時を持つことができました。
28日はいよいよ本命の日盲連第70回全国盲人福祉大会。
アスティー徳島に1500名が参集。
厚労大臣と文科大臣は代読でしたが地元の国会議員や知事さん、それに市長さんの列
席をいただき遠藤市長さんは主に徳島市の見どころについて話しました。
「ああ日盲連日盲連 自由と愛と福祉あり 」とうたう日盲連の歌は同じ作曲家によ
るあの「六甲おろし」や高校野球の歌に比べてかなり印象が薄いのは少し残念。
本大会決議案と宣言案が朗読され拍手をもって承認されました。
ついで次回70周年記念大会開催予定の東京の笹川さんより挨拶があり、景気よく万
歳三唱で閉会しました。
昼食は待望のたらいうどん。
これは視覚障碍者にとってかなりの難物で苦労して食べている人は私だけではありま
せんでした。
この旅行の中で特筆すべきは、まず本県の松岡先生に視覚障害者に対する長年の功績
が認められ日盲連より「礎賞」が授与されたこと。
聞くところによると県視協の会長を12年も務められ、現在に至るまで点字印刷で本会
の財政に寄与してくださっていることは皆様もご存知の通りです。
感謝をささげ共に喜びたいと思います。
また、いつもなら旅行業者にまかせっきりですが今回はくすのき荘のスタッフの方に
マイクロバスの運転や手引きなどしていただき、アットホームな雰囲気に終始しおかげ
さまで全員無事帰途に就くことができました。
皆さんおつかれさまでした。
最後に天も我に味方して好天に恵まれたことを付記します。
安岡一誠先生のこと 松岡弘
私が先生と初めて会ったのは、今から60年くらい前のことです。私は昭和29年に
東京教育大学(現筑波大学)の 付属盲学校高等部へ進学しました。その頃、教員養成
部へ 入学されたのが先生でした。同じ四国と言うことで、何となく親しみを感じてい
ましたが、あまり目立たない温厚な先輩でした。それから10年後の昭和39年4月に
高知盲へ赴任することになりました。初めて行く高知と言うことで、不安もありました
が、先生がおられると言うことで気が楽になったことを思い出します。在職中は教材の
ことや指導法などでいろいろとご指導いただきましたし、退職後は県視協のことで貴重
な助言をいただきました。退職後、先生はお元気で自宅開業されていました。ところが
10年くらい前に「動悸息切れが激しいのでインターネットで調べたところ、高知では
手術が出来ないけど横浜市に心臓のバイパス手術をする有名な先生がおられることがわ
かったので、手術を受けて見ようと思う」との電話をいただきました。その手術に成功
した先生は総会や忘年会など視協の行事に参加してくださったことは皆さんご承知の通
りです。ところが、昨年の7月に1ヶ月ほど入院されたようでした。「間質性肺炎でゆ
くゆくは酸素ボンベを背負って歩くようになるかも知れないよ」と言っておられました
が、そんなにひどくなることもなかったようです。今年の6月上旬に「坐骨神経痛が出
て腰も痛いので、腰椎の骨折があるかも知れないから明後日精密検査を受けるつもりで
す」との電話が最後となりました。そして、去る7月7日に88歳の天寿を全うされま
した。最後に先生との思い出の一つをご紹介しましょう。理療科教員の研修会の後、余
興をすることになった時のことです。今のようにカラオケセットがどこにでもある時代
ではありませんでしたので、「一緒に歌ってくれないか」と頼まれたのです。失礼なが
ら先生は俗に言う音痴でしたので、私は日頃の恩返しのつもりででかい声で歌って何と
か場を盛り上げようと思いました。ところが、いざ歌い出してみると先生は音程を外す
ことなく完全に歌われたのです。何の歌だったかは思い出せませんが私が小さな声で歌
ったことは言うまでもありません。「先生、すごいじゃないですか」と言うと「実は今
日のために家内に習って来たんだよ」とおっしゃいました。先生の奥さんは、素晴らし
いソプラノで昔高知市内でも有名なフラワーソングクラブに所属されていました。奥さ
んの指導がよかったのか 先生の努力のたまものかわかりませんがとにかく正確に歌っ
たことは確かです。その後先生の歌を聞いたことは1度もありませんでした。先生、ど
うか安らかにお休みください。
(合掌)
ピンピンコロリはちょっと待って 沖 郁子
「ぽっくり寺」と呼ばれているお寺があって、毎日大勢のお年寄りがバスでお参りに訪
れているそうです。本堂では「長患いをせずにころっと逝けますように」と祈っておい
て、お寺の門を出る時には「もう少しこの世で楽しみたいので、先ほどの願いはもう少
し後にしてください」と祈って帰って来たという笑い話を聞いたことがあります。
ある日「予約をしてなかったけど電話番号がわからなくなって」と高齢の女性が入って
来ました。かりに「花さん」と呼ぶことにします。花さんは何年か前には足が弱ったか
らと自転車で来ていたのですが、危ないと息子さんに自転車を取上げられて来られなく
なっていたのだそうです。「今日は杖をついて歩いて来た。15分もかかった。自転車
なら5分もあったら来られたのに。」と花さんはこぼしていた。
花さんは土佐弁で言う「いられ」です。約束の時間よりだんだん早く来るようになりま
した。黙っていると30分も早く来るかも知れません。そんなに早く来なくても10分
前にここに着けばいいからと伝えました。「10分あれば汗も少しはおさまるでしょう
。それに私もお昼をゆっくり食べられるから」と言うと「ああそうかあ。あんたがお昼
をゆっくり食べられるわねえ。」と納得してくれます。そんなら何時にうちを出たらえ
えろうか」「この前15分かかったと言ってたけど、どれくらいで着きましたか」と聞
くと「今日は10分で来られた」と言います。「まあ5分も早く来れた?これ以上早く
歩かなくていいから、ゆっくり歩いて来て下さいね」と、何時に家を出ればいいかを伝
えました。
花さんは当時1日で1番暑い時間を予約するのでした。じっと我慢をしながら時計の文
字盤を見ておうちを出る時間を待っている花さんを思うと少し気の毒でもありました。
お盆が近づいて来ました。花さんのお宅では月遅れでお盆のお祭りをしているそうです
。宗旨によっては事細かく規定があって準備も大変なようでした。
「来年は主人の13回忌でね。今からお祭りのことを考えんとねえ」と花さんは言いま
した。
花さんは農家へ嫁ぎご主人と一緒に夢中で働きました。ご主人が病気で入院してからは
自分がどんなに疲れていても体の具合が悪くても毎日自転車で病院へ行ってお湯で体を
ふいてあげて食事のお世話をしました。
ご主人が亡くなってお通夜の時、花さんはお棺へ顔を突っこんで「さびしいき言うてす
ぐに迎えに来なさんなよ、私はまだこっちでしたいことがいっぱいあるきにね」と言い
ました。
私は思わず笑ってしまいました。「そんな話、初めて聞いた、普通なら連れて行ってほ
しいと泣くでしょう。」と言うと「大泣きした後じゃもの、もうつろうてつろうてねえ
」と花さんは言いました。
何度かこのことが話題になった時「ご主人は今さびしいでしょうかねえ」と聞いてみる
と「さびしいことはないろう、あちらには先祖代々大勢おるからにぎやかにやりゆうと
思うよ」と花さんは言いました。
「この話おもしろいから作文に書いてどこかへ発表したい」と言うと「かまんき書いて
」と花さんは言いました。
思い出すままに(6) 溝渕 健一
昭和19年(1944年)の4月、僕ら4人はそろって初等部3年に進級した。言い
換えれば、初等部の下級生が中級生になったのであるから、そのうれしさも一入であっ
た。担任は、二十代の佐野先生から四十代の北森先生に代わって、教室の雰囲気は、緊
張モードから穏やかモードになったので、子供心にもほっとした記憶がある。
教わる科目数は、理科・修身(今の「道徳」)・算盤の三つが加わったので、9科目
34時間に増えた。植物や昆虫に詳しい北森先生は、理科の時間を利用して、蚕の飼い
方や繭の作らせ方、タマネギの育て方、里芋の植え方などなど、列挙すれば先生の実践
的なご指導の思い出は尽きない。中でも7センチぐらいの蚕の芋虫を手のひらや机の上
に載せて這わせたり、桑の葉を被せたりしてそれを食べる音に耳をすまして熱心に観察
したことや、点字用紙で作った箱にびっしりと生みつけられた蚕の卵の数の多さと点字
そっくりの手触りに感動した思い出は今も鮮明である。因にこんな事もあった。6時間
目が終わって静かになった教室の手工台(その上で粘土細工などをするためのテーブル
)の上で、繭玉(まゆだま)から出て間もない蚕ガ(かいこが)の断続的な羽音が聞こ
えたので、それを手に取ってみると、2匹がお尻でつながっていたので、驚いてそれを
直ぐに引き離そうかと思ったが、北森先生がまだ教室におられたのでそのことについて
お尋ねしたところ、先生は事も無げに「そのままにしておいてやりなさい」とおっしゃ
ったので、交尾のことなど何にも知らなかった無邪気な9歳の少年は、それをそっと台
に戻してやったが、その意味が自然に理解できたのはそれから二三年後のことであった
。それにしても、あの時罪作りをしなかったことは良かったと、この原稿を書きながら
懐かしく思い返している。
ところで、新しく習い始めた「修身」とは、身を正しくおさめて、立派な行いをする
ように努めることであるが、当時は「教育勅語」をよりどころとして教えた道徳教育で
あったから、その意味では今の道徳教育と同じとはいえない。僕らが習った教科書には
、親孝行の模範として二宮金次郎、忠君愛国の模範として乃木希典(まれすけ)大将、
江戸初期にタイに渡って日本人町の長となって国王の信任を得た山田長政らを登場させ
ていたことを思い出した。当然の事ながら「教育勅語」も乗っていたが、「朕思うに…
」で始まる文語体の難解な文章は、今読み返しても理解できないところが多い。それを
強制的に暗記させられ、おまけに夏休みの宿題として、それを毎日2ページずつ書かさ
れることになったので、思わず出た深いため息を禁じえなかったものである。そんな経
験をした僕は、いたいけない園児が、あの教育勅語を暗記させられていたという、森友
問題を伝えるニュースを聞いて、園児たちのいじらしさを思って目頭が熱くなった。
※ 教育勅語は、明治天皇の名のもとに明治23年(1890年)10月30日に発布
され、昭和23年(1948年)6月19日に廃止された「教育に関する勅語」で、天
皇の先祖が天照大神や神武天皇であることを強調するとともに、愛国心や忠孝の徳を国
民教育の中心に据えている。
鳴子抄鑑賞 小澤 幸泉
川柳とはひとことで言えば「人間や物事などすべての物を対象にして、喜怒哀楽など
の感情を、5・7・5のリズムの短い文にしたもの」なのです。これが川柳ですという
ほんの一例、
寝転べば畳一帖ふさぐのみ 麻生路郎
浮き草は浮草なりに花が咲き 中島生々庵
人恋し人煩わし波の音 西尾栞
にぎりめし母の祈りのかたちして 小出智子
貧しさもあまりの果ては笑い合い 吉川雉子郎(吉川英治)
どうですか。わかりやすくて、何だか作れそうな感じがしませんか。そうです、何も難
しく作る必要はないのです。今月も皆さんからの「生活と思い」がいっぱい詰まったた
くさんの句をいただき、ありがとう。
◆勇気出し手助け頼み愛を知る 桂子
時々、街で見かける光景です。「どうしょう」と困っている障害者の方、そしてどう
やって手助けしたらよいのかと、とまどっている方。一言の勇気がお互いを結びつける
きっかけになるのですが、作者は素晴らしい。そのことで人の愛を知ることができまし
た。感動の一句です。
◆彼岸花だれかを思い咲き乱れ 千代
作者にとってはお兄さんのことでしょうか。お互いに一人ひとりの誰かを思う季節。
彼岸花が教えてくれました。近頃では思い出すひとのことも思い出せなくなってきてい
ます。
思いでは思い出すほど遠くなり(時彦)
でももうすぐ、本当に会えますね。
◆十五夜に桂月偲び一句詠む 忠支
言うまでもなく、その前に「桂月」酒で一杯やってから。
〔大町桂月、詩人・評論家で酒豪。高知市生まれ。毎年桂浜で、中秋の名月に、酒供養
が行われた〕さて、どんな一句ができましたか。作者でしたら、もちろん酒の句、楽し
みにしています。
◆桜咲く胸ふくらませ初仕事 近子
同じ作者の句に、会社に行ったけど、思いあて外れ という句
つぶやきがあります。ふくらんだ胸も気がつけば、しぼんでしまっていた。若者も高齢
者も仕事がしやすい、生活しやすい希望のある社会をと作者は心から願っています。そ
して(花たちが春を待ちかね咲きほこる。)
◆傷ついた祈り届かぬ原爆忌 幸泉
「あなたはどこの国の首相なのですか」被爆者の悲痛な叫びに
この人は答えもせず、その空しい言葉だけが8月の広島の空に消えゆきました。♪ふる
さとの街焼かれ、身寄りの骨埋めし焼け土に、いまは白い花咲く、ああ許すまじ♪作者
の深い悲しみと怒りがこの一句凝縮にされています。
◆秋風受け旅支度する渡り鳥 忠支
行先は何処でしょうか。流浪の旅、北へ、南へそして西へ東へと長い長い旅になりそ
うです。帰りは何時のことになるのでしょうか。やがて来たりくる冬の季節に追いかけ
られるように。それは渡り稼ぎする人。無事を祈って暖かく見送ろうとしている作者の
思いに感動を与えられました。
◆入学式子どものハイ!が身にしみた 桂子
あれから長い歳月が過ぎました。ハイ!の言葉が、そしてその姿がしっかりと見えぬ
眼に焼き付いて離れない。淋しさと安らぎの思いが全身に拡がる。共に受け止めてくれ
たお父さんはもう
側には居ない。でも、いまの作者も倖せそうである。心暖まる一句である。親子って本
当にすばらしいなあ。
◆汗かき恥かき後は何でも引き受ける 幸泉
何でも、便利屋さんの山ちゃんに、荒れた庭の草木の手入れしてもらいました。三時
間の作業ですっかり汗かき、上手に仕上げたが気になるようで「スミマセン!」と。差
し出した缶ビンを一気に飲み干してハイ。そんな人に私もなりたいものです。
共感の一句。
◆あじさいの花色とりどりに咲き乱れ 近子
色は、青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいう。
紫陽花や花だに変わるきのうけふ(子規)
毎年、その時期になると弘岡用水(春野町)のあじさい祭りに出かけます。梅雨に濡れ
るその見事さに心奪われます。あじさいの雨は紫色の恋(芙美女)そして、あじさいや
仕舞のつかぬ昼の酒(乙二)
◆先祖供養一語一語を背中で聞く 千代
いつの間にか夢心地になっています。遠い先祖と極楽の蓮合で戯れている自分。突然
。木魚の音に背中を叩かれ眼が覚める。
眠気を誘う読経はいつ終わることなく、続けられています。
ご先祖さま、もうあなたにお会いできましたね。これで十分です。やっと度胸が据わり
ました。本当にありがとう。
共助の地図 障害者と考える震災ハザード
「生き延びる」を意味する古い土佐の言葉を用い、高知新聞社が2016年に始めた防
災プロジェクト「いのぐ」。その一つとして、障害のある人や家族、支援者の「
いのぐ」を考えます。
高知県に暮らす身体、知的、精神の障害者手帳を持っている人は約5万5千人(16
年度末)。私たち記者もまず、彼、彼女たちの言葉、言葉にならない思いをみつ
めることにしました。
「最近、歩いていると助けてくれる人が増えました。信号赤ですよ、と教えてくれると
か」。そう話すのは高知市内のマンションで暮らす恒石道男さん(67)。「でも、危
ないからと無言で引っ張られると、心臓が止まるかと思う。とっさの行動でも声は掛け
てほしい」 マンションから出てきた恒石さんの手には、白杖(はくじょう)。点字ブ
ロックで方向を確かめ、慣れた様子で歩き始めた。
10分ほどで同市越前町2丁目の小高坂更生センターへ。この中の県視覚障害者協会
で会長を務めている。
■□■
「東日本大震災の時、避難所で視覚障害者が一番苦労したのがトイレだそうです。簡
易トイレは普通のトイレと使い方が違うため、使い方が分からないからと、水分
や食事を我慢した話を随分聞きました」
「障害の程度はそれぞれ違うし、『見えないから何もできない』わけではない」。だ
が、そのことを周囲の人に説明できる場はない。
「避難所で訓練があったというニュースを聞くけど、呼ばれたことがない。一緒に参
加すれば何に困るのか分かってもらえる。行政主導でそんな訓練を増やすことが
備えになると思う」
「慣れたら自分で動けるし、教えてもらえればトイレも使える。避難所のリーダーと
なる人にはそこを理解しておいてほしいです」
避難所生活への心配は尽きない。だが、その前に越えなければならない"壁"がある。
「私は網膜色素変性症で子どもの時から弱視。眼鏡で0・1あるかないかでしたが、
生活はできていた」。理学療法士として働いたが、40代から視力と視野が徐々
に失われた。
「建物の輪郭が分からなくなり、ここ10年は明かりが分かるかな、という程度。そ
れでも白杖はつきたくなかった。障害を認めたくなかった。歩行訓練を受けて自
分で動けるようになったのは定年後です」
恒石さんは視覚障害を受け入れることができるまでに「20年近くかかった」。同じ
ような人は少なくない。だが、障害を受け入れることができなければ、震災時に
は命を左右しかねない。
「自分たちは一人では絶対に逃げれん。助けてもらうには、自分の存在を知ってもら
うこと。そのためには白杖をつく姿を日頃から見せないかんのですが、訓練を受
けなかったり、『障害を知られたくない』と家から出ない人は多いです」
■□■
当事者団体による東日本大震災視覚障害者支援対策本部は、震災1年の活動報告でこ
う指摘する。各県の視覚障害者団体が住所を把握していた人は「(障害者)手帳
所持者の十数%」で「多くの方々が(中略)ひっそりと声も出さずに生活」していた、
と。
事務局便り
1.視協通信でもお伝えしました平成医療学院訴訟について、多くの会員の方々からご
寄付が届いております。10月くらいを目処にとりまとめ、日盲連に送ろうと考えてい
ますのでよろしくお願いします。
2.郵便物が宛先不在で戻って来ることがあります。転居された方は、速やかに住所変
更届けを事務局まで申し出ください。
3.会費が未納の方は、納入をお願いします
編集後記 片岡 義雄
朝夕はだいぶしのぎやすくなりましたが「あかり」読者の皆様はいかがお過ごしです
か。
第41号をお届けいたします。
今年上半期には視協にとって大きな喜びと悲しみがありました。喜ばしいことは松岡
先生に日盲連より「礎賞」が授与されたこと。また、悲しいことはもう安岡先生に会え
なくなったことです。松岡先生に思い出など書いていただきました。
私たちも健康に注意して米寿と言わず百までも元気で強かに生きたいと思います。
今後とも「あかり」をよろしくお願いいたします。