昭和24年(1949年)と言えば、戦後4年目で、わが国は依然としてGHQの
占領下におかれていたが、それでも人々は少しずつ落ちつきを取り戻しつつあったと
思う。
この年の国内の動きの中で主要なものとしては@6月1日付で、日本国有鉄道(現在
のJR)並びに日本専売公社(現在のJT)及び国立新制大学68校が発足したこと
A同月27日、ソ連からの引き揚げが再開され、第1船のたかさご丸が舞鶴に入港し
たことB8月16日、全米水上選手権大会において、古橋・橋爪選手らが、400メ
ートル1500メートルで世界新記録を樹立したことC9月15日、東京〜大阪間の
特急列車が復活したことD11月3日、湯川秀樹博士に日本人初のノーベル物理学賞
の授賞が決まったことE12月には、身体障害者福祉法(翌年4月1日施行)が交付
されたことなどを上げることができると思う。
海外ニュースでは、1月25日に、ソ連と東ヨーロッパ5カ国の経済相互援助会議(
コメコン)が設置されたのに対して、4月4日に、西側12カ国がワシントンで北大
西洋条約(NATO)に調印した。また、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が5月24
日に、中華人民共和国(中国)が10月1日に、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が1
0月7日に、それぞれ成立発足した。
次に、この年の母校の歩みと重ねて僕の記憶を少したどってみたいと思う。
昭和24年の4月には、新しい教育制度に基づいて設置された高等部と中学部にそれ
ぞれ第1期生が入学した。高等部には安岡一誠さん(昭和29年卒)ら3名が、中学
部には故古田春喜君(昭和29年卒)と僕が入学を許された。
この年の5月下旬に、大阪府立盲学校で開催された点字毎日主催の「全国盲学生雄弁
大会」に、中等部(旧制度の)3年の大山実さんが、「前途に光明を求めて「の演題
で、母校の代表として出場した。その論旨は、国鉄(現JR)の若き機関士として励
んでいた彼が、突然失明したときの心情を「まるで嵐の中にほうり出された雛鳥のよ
うであった」と吐露した上で、三療が私たちの天職であることを知ったので、これか
らは時折走馬灯のように心に浮かぶ過去を顧みず、明るい未来を信じてひたすら邁進
したい。というもので、そのほとばしるような弁論は今でも鼓膜にやきついている。
僕はその時、幸運にも補欠として同行を許され、大会終了後は山崎武明先生に引率さ
れて、点字毎日・大阪のライトハウス・京都府立盲学校・東本願寺を見学し、立ち寄
った喫茶店ではカルピスや蜜豆の味を初体験するなど、修学旅行のような三日間が懐
かしい。
9月1日……新築落成したくすのき寮に、児童・生徒たちが入所した。
10月22日……兵庫県立盲学校で開催された「全国盲学生相撲大会」に、母校から
は主将の石黒哲夫さん(昭和29年卒)ら3選手が出場し、6位に入賞した。
11月20日……高知商業高校主催の「第4回珠算協議会」に、母校から安藤(旧姓
窪内)幸子(昭和27年卒)・宮本良美(昭和27年卒)、それに僕の3人が出場し
て優秀賞を授与された。
ところで、、NHKの長寿人気番組となった「とんち教室」と「私は誰でしょう」が
始まったのがこの24年で、以後19年間ファンを飽きさせることがなかった。殊に
とんち教室での石黒敬七生徒の勉強ぶりは、テープでいま聞いてみても口元のほころ
びを禁じ得ない。
昭和24年の流行歌で僕の手元にあるのは48曲であるが、ヒット曲としては田端義
夫の「かよい船」、三條町子の「かりそめの恋」、岡晴夫の「港ヨコハマ花売り娘」
、去年の暮れ86歳で逝かれた高峰秀子の「銀座カンカン娘」、芸者歌手市丸(いち
まる)の「三味線ブギウギ」、竹山逸郎と藤原亮子の「月よりの使者」などを上げる
ことができる。雨で桂浜行きが流れて、室内で開かれた24年度の新入生の歓迎会で
、入江四郎先生(昭和23年卒)の熱唱で初めてきいた「月よりの使者」の感動の記
憶は今も鮮明に残っている。
また、この年は、いわゆる母ものの映画が何本も封切られ、同名の主題歌で、菊池章
子の「母紅梅の唄」、津村謙の「母三人の唄」、霧島昇の「母燈台」、菅原都々子(
つづこ)の「母恋い星」が発売されて、長打ではなかったがヒットしている。
美空ひばりは、この年の8月、松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ブギウギ」を
歌って、b面ではあったがコロムビアから12歳で正式に歌手デビューしたものの、
これはあまり売れなかった。しかし、次の松竹映画「悲しき口笛「には自らも出演を
果たし、同名の主題歌は45万枚売れたというから、当時としては特大のホームラン
記録と言ってもいいが、ロングセラーという点では同年発売の、「青い山脈」や「長
崎の鐘」には及ばなかった。
石坂洋次郎原作の映画「青い山脈」は、民主主義が次第に浸透しつつあったその当時
の世相を反映していたこともあって、藤山一郎と奈良光枝が歌った同名の主題歌が大
ヒットして、国民的歌謡曲になったことはご承知の通りである。
サトウハチロウ作詞の「長崎の鐘」は、当時被曝・闘病中の医学博士永井隆の著書「
長崎の鐘」と、長崎市への原爆投下などを主題にしているが、歌詞には原爆を描写し
た部分は全くない。恐らくこれは、米軍の検閲をはばかったのではないかと思われる
。サトウの詞は、単に長崎だけではなく、戦争による受難者のすべてに捧げる鎮魂歌
であり、未だに強いショックから立ち直れない人々の再起を願っての詞である。歌詞
の2番には亡妻の形見となったロザリオの発見時の経緯が、3番には一家の深い信仰
生活が詠まれていて、僕はこの歌を聞くといつもひとりでに背筋が伸びるような気が
する。
長崎の鐘(昭和24年7月発売)
作詞 サトウハチロウ 作曲 古関裕而 歌唱 藤山一郎
1 こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る
2 召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る
3 こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る
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