昭和25年(1950年)といえば、連合国軍の占領下6年目で僕が中学部2年に
進級した年であったが、去来する思い出の多い年でもあった。
この年の国内の動きの中で主要なものとしては@1月1日から年齢の数えかたが、そ
れまでの数え年ではなく満年齢となったことA1月7日、新しい1千円札が発行され
たことB2月1日、国鉄(現JR)が身障者の旅客運賃の割引を実施したことC4月
1日、前年の暮れに成立した「身体障害者福祉法」が施行されたことによって、手帳
の交付、厚生相談、補装具の給付などが行われ出したことD5月、「生活保護法」が
公布されたことE8月30日、「警察予備隊令」が公布・施行されたことF11月2
8日、プロ野球第1回日本シリーズで毎日オリオンズが初優勝したことG12月7日
、時の大蔵大臣池田勇人が参議院で「貧乏人は麦を食え」と発言したことで囂々たる
非難の声が上がったことなどを上げることができる。
国際ニュースの中で真っ先に取り上げなければならないのは、何といってもこの年の
6月25日の朝鮮戦争(28年7月27日まで続いた)の勃発である。それからわず
か3日目の28日には早くも北朝鮮軍がソウルを占領したという、怒涛の進撃のニュ
ースを聞いて非常に驚いた記憶は今も鮮明に残っている。
その他国際的に注目された出来事としては、1月13日、ベトナム民主共和国の独立
宣言。1月31日、アメリカのトルーマン大統領が水爆の製造を命令。2月14日、
「中ソ友好同盟相互援助条約」締結。2月18日にユーゴが、3月17日にインドが
それぞれ「非同盟政策」を言明。8月15日、スカルノがインドネシア共和国樹立を
宣言。などを列挙することができる。
身近なところでは、昭和25年5月24日は、木造2階建ての母校の新校舎が落成し
移転した記念すべき日であったが、落成式や祝賀会などがいつ・どんな風に行われた
かについては、残念ながらまったく覚えていない。
あれは確かこの年の二学期のはじめの頃であったと思うが、突然僕らは珍客の訪問を
受けた事を思い出した。その人の名は永吉真澄さん(昭和10年卒)で、入江先生が
思い出してくださった別名は「葉隠入道一心斉(いっしんさい)」であった。彼は母
校を卒業して間もなく、「あはき師」としてではなく「修験者」として山野に起居し
つつその道の厳しい修行を積んで、遂に「気合術」を収めたというまさに異色の大先
輩であった。長年の修行の結果として体得した「気合術」の一端を、後輩たちにも披
露しようとこの日の訪問となったようである。
好天に恵まれた昼下がりの校庭に集まった大勢の職員・生徒を前に、三つの演技が披
露された。
最初の演技は、茣蓙の上で数本の一升瓶を叩き割って、その破片の上に何十キロかの
重量物を抱えて寝転がるというものであった。二つ目は、そのガラス破片の上を体重
65キロ前後の大山実さん(昭和26年卒)を背負って素足で歩くという演技で、「
ガジガジ」と破片を踏み砕く音を聞いて無意識に体が固まっていたことを思い出した
。後で、大山さんにその時の感想を聞いたら「ブルブルッという振動とともに緊張感
がもろに伝わってきて怖いような気持ちになった」と教えてくれたものである。
最後は、先端を針のように尖らせた自転車のスポークを前腕に差し入れて、その後端
のフックに引っかけたロープで、それぞれに大人一人が乗った自転車3台を引っ張っ
て歩くという演技であった
「気合術」で精神統一を図り、それによって厳しい環境にもへこたれず、悪条件をも
克服する技と力を発揮するという、まさに「精神一到何事か成らざらん」の格言を形
で教わった貴重なひと時であった。
ところで、この年の12月18日、GHQ(連合国軍総司令部)の特殊教育課のスタ
ントン博士が、本県の実情を視察するため、盲学校と聾学校を訪問した。
翌朝の高知新聞には「スタントン博士握手責めに会って感激」の見出しが躍っていて
、記事の中で盲学校では手作りのクリスマスツリーが飾られていたことや、小学部3
年のクラスの色紙を使っての工作の授業の様子などが載っていたようである。
僕らは、恥ずかしがって引きこもってしまった桜井先生に替わった大矢正一先生担当
の英語の授業を受けていたが、「教え方が実に上手」と随分持ち上げられていたこと
が思い出される。
ちょっと横道に逸れるがその当時、富田 満先生(アララギ派の歌人でもあった)の
ご指導で毎月開かれていた「短歌・俳句のかい」に提出された一句に、「糠拭き(ぬ
かぶき)の効果スタントンに靴脱がせ」というのがあったことを思い出した。元海軍
中尉の高田幸喜さん(昭和26年卒)の作で、糠袋でピカピカに磨かれた廊下を見た
スタントン博士が、米国流をひっこめて上履きにはきかえられたという話を主題にし
たものであったがやはりこれも懐かしい思い出の一コマである。
さて、昭和25年の流行歌で僕の手元にあるのは32曲であるが、その中でヒット曲
としては、奈良光枝の「赤い靴のタンゴ」、笠置シヅ子の「買物ブギ」、渡辺はま子
の「シスコのチャイナタウン」、ラジオ歌謡がレコードかされた岡本敦郎(あつお)
の「白い花の咲く頃」、林 伊佐緒(いさお)が自ら作曲して歌った「ダンスパーテ
ィーの夜」、美空ひばりの「東京キッド」、山口淑子の「東京夜曲」などがある。
今回は、NHKの人気番組で当時最も聴取率が高かったといわれている音楽バラエテ
ィー「日曜娯楽版」(昭和22年10月12日から27年6月8日まで放送)の中で
、10月に初めて歌って好評を博した「冗談鉄道唱歌」の東海道の巻きの抜粋をご紹
介したいと思う。※なおレコード化されたのは翌26年の4月であった。
僕は特急の機関士で
作詞・作曲 三木鶏郎(とりろう)
歌唱 三木鶏郎・丹下キヨ子・森繁久弥
(東海道の巻)
「十番線から大阪ゆき一、二、三等特別急行列車発車いたします」
1 僕は特急の 機関士で
可愛い娘が 駅毎に
いるけど 三分停車では
キスする ヒマさえ ありません
東京 京都 大阪
ウウウウウウウウ ポポ
7 ネオン・サインの 大阪は
心斎橋から 御堂筋(みどうすじ)
もうかりまっかと きかれても
トントほんまに アキマヘン
東京 京都 大阪
ウウウウウウウウ ポポ
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