ふと思ったこと(その15)


 昭和26年(1951年)といえば、終戦以来長らく続いてきた連合国軍による日

本占領時代の終わりが漸く決まった年であったが、その事は中学部3年生の僕の記憶

にもくっきりと残っている。 ちなみに、この年の大卒の初任給は4560円であっ

たという。

この年の国内の出来事をざっと拾ってみると、1月3日、NHKラジオで第1回「紅

白歌合戦」が放送。4月2日、500円紙幣発行。7月30日、日本航空が設立され

、10月25日、一番機として「もく星号」が飛んだ。11月2日、NHKラジオで

「三つの歌」(昭和45年3月30日まで続いた長寿番組)が放送開始。11月10

日、日教組が第1回教研集会を開催。12月には、あん摩等営業法が、「あん摩師・

はり師・きゅう師及び柔道整復し法」と改称して、あはき法が営業法ではなく身分法

であることを明示した。

 カレンダーをちょっとさかのぼることになるが、日本時間9月5日、誰もが待ち望

んでいた日本の独立と平等を保障する「対日講和会議」が、アメリカ・サンフランシ

スコのオペラハウスで開催され、9月8日、「サンフランシスコ講和条約」(翌年4

月28日発効)に49カ国が調印した。

5日の開会式でアメリカのトルーマン大統領は、「この講和条約は日本に復讐を与え

るためのものではなく、民主化された日本国民に主権と独立を与え、太平洋地域・ひ

いては世界平和を一歩進めるために結ばれるのである」と歴史的な演説を行った。

8日の調印後、無事退任を果たした主席全権の吉田茂は、NHKのマイクを通して日

本国民に対して次のように挨拶した。

「私は、平和条約調印のこの記念すべき日に当たって、一致団結して民主主義・自由

・平和主義に徹底し、世界の文化反映に寄与せんとする国民の決意を、世界に表明い

たしたいと存ずるものであります。」

※また、この9月8日には、サンフランシスコの別の会場で「日米安全保障条約」(

翌27年4月28日発効)も署名調印され、これによってわが国が歩むべき方向性が

必然的に決定づけられたわけである。

この年の海外ニュースでは、朝鮮戦争の激しい攻防の状況が連日報道されていたが、

7月10日、第1回目の朝鮮休戦会談が行われたことで、その後の成り行きが注目さ

れた。

 この昭和26年にまつわる母校の思い出の中から今回は、全国盲学校野球大会に出

場した時のことについて少し書いてみたいと思う。

盲人野球は、終戦直後から東京盲学校などで盛んに行われていたようであるが、何度

もルールを改正しながら急速に地方へと広がっていった。母校へ導入したのは、昭和

22年4月に赴任された南省悟先生であったが、ピッチャーは時々バッターの注文も

聞きながら打ちやすいボールを転がし、打者はそれを素手で打つというもので、今思

えば「野球ごっこ」みたいなものであったが、これがなかなか面白くて夢中になった

のは僕だけではなかった。

昭和24年4月に赴任された嶋武次郎(しま・竹次郎)先生が、体育も担当すること

になって、その頃から野球は体育に取り入れられたので母校では女性も参加すること

になり、打者はバットを振り、投手はカーブやシュートボールの練習に励んだもので

ある。

そんな折り、点字毎日主催の第1回全国盲学校野球大会が、夏休みに入って間もない

7月25日前後に、当番校の大阪府立盲学校のグラウンドにおいて、東京・三重・石

川・大阪府・兵庫・広島・高知・柳川・それにどうしても思い出せない1校の7チー

ムが参加して開催された。

当日の未明まで降り続いた激しい雨でグランドコンディションは最悪で、特に外野の

ぬかるみはひどく、浅い外野フライが左中間に「ぽちゃん」と落ちて、まるで泥濘の

グランドに埋没したかのようにボールが全く動かなくなり、それを見つけだす間に、

満塁ランニングホームランにされたというような、苦いハプニングも経験した。

1回戦で高知は、この大会の覇者となる大阪府盲と対戦したが、京都や静岡から駆け

つけてくれた諸先輩の声援にも応えられず、25対1で敗退した。当時の悔し涙も今

は懐かしい。大会直後のサンデー毎日に「盲人さんはナイターがお好き」の見出しで

そのときの模様がかなり詳しくけいさいされたが、その内容には見出しのような違和

感はなかった。

下記のメンバー表で出場選手10名を紹介するが、紅2点と小中学生も加わった文字

どおりの混成チームであったから、成長途上というより早春のツクシの坊やみたいな

チームであったが、僕らにとっては忘れがたい61年前の暖かくも微笑ましい青春時

代のロマンであったと思っている。

メンバー表(括弧内は旧姓 当時の学年 卒業年である)

 監督 入江四郎  主将 石黒哲夫

1番 ライト 岡村三郎(中2 昭和30年卒)、2番 センター 谷啓悟(中2 

33年卒)、3番 キャッチャー 田村俊広(としひろ)(高2 30年卒)、4番

 ショート 石黒哲夫(高3 29年卒)、5番 一塁 清家繁子(友草 高2 3

0年卒)、6番 二塁 山崎昭子(樫本 別2 27年卒)、7番 レフト 安岡一

誠(高3 29年卒)、8番 ライトショート 津野泰造(小6 33年卒)、9番

 三塁 永野真太郎(小6 33年卒)、10番 ピッチャー 溝渕健一(中3 3

2年卒)

 さて、26年の流行歌で僕の手元に有るのは50曲であるが、ヒット曲が多く豊作

の年であったと言えよう。

伊藤久男の「あざみの歌」や岡本敦郎(あつお)の「リラの花咲く頃」「あこがれの

郵便馬車」などはNHKのど自慢でよく歌われていた。美空ひばりは「私は街の子」

「越後獅子の唄」「ひばりの花売り娘」をそれぞれヒットさせ、菅原都々子(つづこ

)は「江ノ島エレジー」とともに「連絡船の唄」を大ヒットさせて哀愁の歌姫の名を

更に高めた。深夜便などで連絡船の唄がかかると、僕はいつも昭和32年卒の井崎広

利(ひろとし)君を思い出す。その見事な物まねは、まるでその人のライブを聴くよ

うで、毎月の誕生日会にはなくてはならない人気の花であった。

この年のヒット曲はそのほかにも数曲あるが、何といっても群を抜いた特大のホーム

ランは、ビロードの声で人気の高かった津村謙(けん)の「上海帰りのリル」であっ

た。小林旭が歌う「昔の名前で出ています」の男女逆バージョンのようなこの歌はい

までも時々耳にすることがある。思い出されたらタンゴのリズムで、どうぞ。

上海帰りのリル

作詞 東条寿三郎  作曲 渡久地(とくち)政信  歌唱 津村謙(けん)

1 船を見つめていた

  ハマのキャバレーにいた

  風の噂はリル

  上海帰りのリル リル

  あまい切ない 思い出だけを

  胸にたぐって 探して歩く

  リル リル 何処に居るのかリル

  だれかリルを 知らないか

2 黒いドレスをみた

  泣いていたのを見た

  戻れこの手にリル

  上海帰りのリル リル

  夢の四馬路(すまろ)の 霧降る中で

  なにもいわずに 別れたひとみ

  リル リル 一人さまようリル

  だれかリルを 知らないか

3 海を渡ってきた

  ひとりぼっちできた

  望み捨てるなリル

  上海帰りのリル リル

  暗き運命(さだめ)は 二人で分けて

  共に暮らそう 昔のままで

  リル リル 今日も逢えないリル

  だれかリルを 知らないか


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