ふと思ったこと(その19)


 昭和30年(1955年)といえば、左右両派が再統一して日本社会党が、また、

自由党と民主党の保守合同によって自由民主党が結成され、いわゆる55年体制が確

立された年であった。また、トランジスタラジオが、ソニーの前身の東京通信工業か

ら新発売された年でもあった。当時は感度も分離も忠実度もそれほど良くなかったが

、母校では松本武夫先生が真っ先に購入され、それを舎監室で興味深く見せていただ

いたことが懐かしく思い出される。

 この年の国内ニュースで主要なものとしては、4月6日、昭和23年1月26日に

、東京帝国銀行椎名町(まち)支店で発生した毒物殺人事件(12めいの行員が死亡

した、いわゆる帝銀事件)の平沢貞通(さだみち)被告の上告が棄却され、死刑が確

定。5月11日、宇高連絡船紫雲丸沈没事故で、高知市立南海中学校3年生28人を

含む修学旅行生ら168人が死亡。6月1日、初のアルミ貨幣(1円)の発行開始。

8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開幕。9月19日、原水爆禁止日本協

議会(原水協)結成。10月13日、社会党統一大会が開催され、鈴木茂三郎(もさ

ぶろう)が委員長に浅沼稲次郎が書記長に選出された。11月15日、自由党と日本

民主党が合同して自由民主党を結成したが、初代総裁として鳩山一郎が選出されたの

は、翌31年4月9日であった。などを挙げることができると思う。

 海外ニュースでは、2月8日、ソ連のマレンコフ首相の失脚でその後任にブルガー

ニンが就任。4月5日、イギリスのチャーチル首相が辞任し、その後任にイーデンが

着任。10月26日、南ベトナム共和国成立。などに関心が集まったと思う。

 福祉関係では、5月、ヘレン・ケラー女史が3度目の来日。7月、療術師法制定の

動きに反対して全鍼連(全国鍼灸マッサージ連盟)を中心に断食闘争が、国会周辺で

繰り広げられた。10月20日から1週間にわたって、第1回アジア盲人福祉会議が

東京で開催。などが主なものであったと思う。

 この年僕は専攻科1年生であったが、母校の思い出としては以下の四つを挙げてお

きたい。4月22日、盲児施設「くすのき寮」が新築落成。5月9日、高知県盲学生

日赤奉仕団(団長溝渕健一)が結成され、室戸市・芸西村・土佐山田・土佐清水市を

歴訪。5月14日、大阪で開催された全国盲学生雄弁大会に参加した細川一美さん(

昭和35年卒)が5位に入賞。10月1日〜2日の両日、東京教育大学(現筑波大)

付属盲の講堂で開催された全点協(後述)の結成大会に、高知盲生徒会代表として溝

渕健一が参加した。

(解説)「全点協」とは、全国盲学校生徒教科書問題改善促進協議会という長い団体

名の略称です。全国から25校の生徒会代表が参集したこの大会では、「せめて一そ

ろいの教科書を」「墨字教科書との格差保障を」それら二つの要求の実現のために、

「国立点字出版所の設立を!」の三つの目標が全会一致で決議されました。極めて正

当且つ切実な要求を掲げて、ひたむきに社会に訴え続けた生徒たちの行動は、時のマ

スコミを動かし、18万9500筆の署名に後押しされて、国会や文部相に少なから

ぬ衝撃を与えました。結局、文部省は就学奨励法の適用を高等部にまで延長して、3

1年度から高等部用点字教科書の無償配布のための措置を講じました。国立点字出版

所の設立の願いはかなわなかったものの、画期的な成果がもたらされたと言えましょ

う。この運動の中心的リーダーの一人、竹村実氏は当時の事を、「全点協運動は、長

く差別の中で学んできた盲学生が初めて胸を張って学習権の保障を社会に訴えた出来

事でした」と回想しています。

 昭和30年の流行歌で僕の手元にあるのは45曲であるが、ここではその中からヒ

ット曲として以下に9曲を列挙しておこう。

「逢いたかったぜ」(岡晴夫)、「愛ちゃんはお嫁に」(鈴木三重子)、「おんな船

頭唄」(三橋美智也)、「ガード下の靴みがき」(宮城まり子)、「小島通いの郵便

船」(青木光一)、「この世の花」(島倉千代子)、「月がとっても青いから」(菅

原都々子=つづこ)、「弁天小僧」(三浦洸一)、「別れの一本杉」(春日八郎)

 ご覧のとおり、この年も流行歌は豊作で、上記のほかにも大ベテラン高田浩吉の「

白鷺三味線(じゃみせん)」や、声優中村メイ子の「田舎のバス」、ブギの女王笠置

シヅ子の「たよりにしてまっせ」などのコミカルな歌も、よく耳にしたものであるが

、この年のホームランクラスのヒット曲は?と聞かれたら、僕はためらいなく、島倉

千代子のデビュー曲「この世の花」、三橋美智也の「おんな船頭唄」、菅原都々子(

つづこ)の「月がとっても青いから」の3曲を挙げたいと思う。

 ところで、あの「ねむの木学園」(肢体不自由児のための療護施設)の創立は、昭

和43年(1968年)であったが、その創立者が歌手・女優の宮城まり子であった

ことは広く知られているところであるが、彼女の歌った「ガード下の靴みがき」は、

学園創立の動機付けの一つではなかったろうかと、今も時々この歌を耳にする度に僕

はそんなことを考えることがある。そこで、今回はこの歌詞をご紹介したいと思う

ガード下の靴みがき

作詞 宮川哲夫  作曲 利根一郎  歌唱 宮城まり子

1 赤い夕日が ガードを染めて

  ビルの向うに 沈んだら

  街にゃネオンの 花が咲く

  おいら貧しい 靴みがき

  ああ 夜になっても 帰れない

 (セリフ)
「ネえ、おじさん、みがかせておくれよ。ホラ、まだ、これっぽっちさ、てんで、し

けてんだ。

エ、お父さん? 死んじゃった・・・・

お母さん、病気なんだ・・・・・。」

2 墨に汚れた ポケット覗きゃ

  今日も小さな お札だけ

  風の寒さや ひもじさにゃ

  なれているから 泣かないが

  ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を

  抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく

  可哀想だよ お月さん

  なんでこの世の 幸せは

  ああ みんなそっぽを 向くんだろう


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