元日の朝目覚めかけて先ずおぼろげに思ったことは、各地の天気のことであった。
初日の出を拝もうというような殊勝な人間ではないのだが、どういうものか元日の朝
の天気については、子供の頃から関心が高かったように思う。頭が少しはっきりして
きたところで考えたことは、今年は平成17年であり、通算すると、昭和80年(戦
後60年)、大正94年、明治138年になるということであった。それと共に、2
度も心筋梗塞を患いながらも、一病息災で今日までよくきたものだとの感慨もちょっ
ぴり。
ところで、歌心皆無の僕ではあるが、毎年正月になると心に浮かぶ一句がある。小林
一茶の「めでたさも中(ちゅう)くらいなりおらが春」というのがそれである。凡そ
幸せな人生とは縁遠かった一茶(1763〜1827年)が、弟との10年余にわた
る長く激しい相続権争いを終息させて、一先ず心の平安を得たのは、文化10年(1
813年)で、彼は既に51歳になっていたが、その翌年には叔父の勧めもあって、
28歳の女性と結婚した。童門冬二著『小林一茶』によると、その後も近づいたと思
った幸せがすぐに遠ざかっていくような、そんな苦しい生活が続いたようである。
しかし、そうは言っても文化11年(彼が結婚した年)からの作風は、それまでのも
のとは大きく異なっていることが素人目にもよく分かる。ちなみに、それまでの作品
の中で、僕のあんまり好きでないものとしては、「寂しさや落ち葉が下の先祖たち」
「長き夜や心の鬼が身を攻める」「死神に選り残されて秋の風」 「我が宿へ来そう
にしおり配り餅」などを挙げることができる。何となくいじけたような屈折した心境
がにじみ出ている。
しかし、彼のそんな心の歪が、少年時代の抑圧された家庭環境に根差していることに
ついても、一茶びいきの筆者としては一言ふれておきたいところである。
僕が毎年思い出す「おらが春」は勿論11年以降の作であるが、妙に浮かれすぎたと
ころもなく、かといって、正月が冥土の旅の一里塚であるというような虚無的なとこ
ろもなく、その時の心境を「中くらいなり」とさらりと言い切っているところが僕の
気に入っているところである。
幾分恣意的ではあるが、文化11年(1814年)以降の彼の作品の中
から、僕の好みで何句か紹介しておこう。
「あっさりと春は来にけり浅黄空」「雪溶けて村いっぱいの子供かな」「ぼた餅や地
蔵の膝も春の風」「我と来て遊べや親の無い雀」「雀の子そこのけそこのけお馬が通
る」
「あおのけに落ちて鳴けり秋の蝉」「ずぶぬれの大名を見るこたつかな」
この頃になると彼の疎外感が薄れて、その作品からは心理的なゆとりとともに、暖か
さや労りの心が伝わってくる。もう少し列挙しておこう。
「鳴く猫にあかんべをして手鞠かな」「母親を霜よけにして寝た子かな」「田楽の味
噌にくっつく桜かな」「やれ打つな蝿が手をすり足をすり」「ともかくもあなた任せ
の年の暮れ」
最後の句は、「おらが春」の句とともに、僕の大好きな一句であるが、これを、「と
もかくも米国任せの首相かな」と、変えてみたくなるのは、僕の悪趣味であろうか?
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