前回に引き続いて今回もまた、僕の心に残るナツメロの何曲かを、母校の卒業生や
教職員の懐かしい声と重ね合わせながら、その思い出を手繰ってみたいと思う。
僕が生まれた昭和9年(1934年)の流行歌といえば、東海林太郎(しょうじたろ
う)の「赤城の子守唄」が代表的であるが、昭和7年に強引に建国させた満州国(中
国の東北地方)を主題にした「国境の町」や「急げ幌馬車」なども有名で、今でもカ
ラオケ店で時々聞くことがある。
ところで、「歌は世に連れ」とも言われているので、此の当時の内外の動きについ
て、ちょっと触れておきたいと思う。ヨーロッパにおいては、イタリアのムッソリー
ニとドイツのヒトラーが、それぞれ独裁者としての権力を着々と固めつつあった。
一方、わが国では昭和6年の「満州事変」、昭和7年の「五・一五事件(海軍青年将
校と陸軍士官学校生徒らが犬養毅首相を射殺した)」の後、軍部はこれを利用して政
党内閣に終止符を打ち、軍部独裁政治への一歩を進めた。それとともに、昭和8年の
「滝川事件(時の文相鳩山一郎が、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授を、その著『
刑法読本』や講演内容が赤化思想であるとして罷免した事件)」が雄弁に教えるとお
り、国民に対する当局の監視の目は、あらゆる分野で確実に、その光を強めつつあっ
た。
流行歌などもまた例外ではなく、当時の制作スタッフは、大衆の欲求と忌まわしい「
検閲」のはざまで、悩ましい日々が続いたであろうことは想像に難くない。戦前の名
曲・ヒット曲には、「検閲」を通り抜けるための工夫が所々ににじんでいて、そんな
ことなどを感じながら聞いてみるのも一興ではないかと思う。
昭和10年になっても、直立不動で歌う東海林太郎は好調で〈野崎参りは 屋形船で
参ろう〉と歌い出す「野崎小唄」や、若き日の清水の次郎長を描いた映画「東海の顔
役」の主題歌「旅がさ道中」をヒットさせた。〈夜が冷たい 心が寒い〉ではじまる
この歌は、食糧増産のため、田植え歌の替わりに歌われたという記録があるらしい。
前年「急げ幌馬車」をヒットさせた松平あきらは、それに続いて〈荒れ野の果てに
日は落ちて〉ではじまる「夕日は落ちて」を歌ってファンを魅了した。
また、高田浩吉は〈土手の柳は風任せ 好きなあの子は口任せ えーションガイナ
えーションガイナ〉と「大江戸出世小唄」を引っ提げて、歌う映画俳優第1号として
登場した。
この年、下駄屋のおかみさんから突然歌手に転身して、いきなり大衆の心をつかんだ
のは、音丸(おとまる)であった。彼女のデビュー曲は、藤田まさと作詞、古関裕而
作曲の「船頭可愛や」で〈夢も濡れましょ 潮風夜風 船頭可愛や えー船頭可愛や
波枕〉と、情感たっぷりのこの歌は、今でもラジオ深夜便などで時々聞くことがあ
る。更に彼女は〈下田夜曲」や「博多夜舟」と共に、ちょっとコミカルな「花嫁行進
曲」と、戦時色の濃い〈皇国(みくに)の母」をヒットさせているが、その後はあま
りぱっとしなかったようである。
「花嫁行進曲」は、昭和19年(僕が初等部3年生の時)、小山昭幸(しょうこう)
さん(昭和21年卒)が、防空壕の中でよく歌っていたし、「皇国(みくに)の母」
の方は、三つ年上の同級生伊藤徳美さんが、火鉢を囲みながら、よく聞かせてくれた
ものである。〈歓呼の声や旗の波 後は頼むのあの声よ これが最後の戦地の便り
今日も遠くで喇叭の音(らっぱのね)〉と、とても13歳とは信じられないようなプ
ロ並みの節回しは、僕の耳の底に今も残っている。
高知県佐川町出身の楠茂雄は、昭和5年にコロムビアに入社したが鳴かず飛ばずで、
9年にテイチクに移籍し、明くる10年に、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「緑の
地平線」を歌って見事に開花した。
ちなみにこの歌は、谷本光茂さん(昭和22年卒)の十八番で、一杯聞こし召される
と、これが出ないと収まらない。いつか僕の下手なハーモニカの伴奏に乗っていただ
ける機会があればと楽しみにしている。
楠は、その後も「人生劇場」や〈君に捧げた真心の〉ではじまる「女の懐旧」などを
歌って連続ヒットを飛ばした。昭和24年に久保ゆきえと歌って日本中に広まった「
とんこ節」が、彼の最後のヒット曲になった。
また、この昭和10年は、熱海温泉のコマーシャルソングとして由利あけみが歌った
「熱海ブルース」や失恋に泣く男心を歌った児玉好雄の「無情の夢」なども、かなり
売れたようであるが、何といっても〈あなたと呼べば あなたと応える〉ではじまる
「二人は若い」が抜群であったと思う。サトウハチロウと古賀政男のコンビの作をデ
ィック峰の歌で、新婚ほやほや振りの一コマを、明るくコミカルなタッチで描写した
のが大受けの理由ではなかったかと思っている。
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