「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流
れてゆきます…」。これはNHKラジオ「にっぽんのメロディー」で、いまは亡き中
西龍(りょう)アナウンサーが夜ごと聞かせてくれた名調子である。番組のなかでは
、スクラッチノイズ(はり音)も懐かしく、ときどき戦前の歌がかかっていた。そん
なことなどを思い出しながら、今回は昭和11年(1936年)からについて少し調
べてみた。
熊本民謡「おてもやん」の熊本弁の歌詞が評判になってはやり出した11年のニュー
ス・出来事のなかで、好むと好まざるとにかかわらず真っ先に取り上げなければなら
ないのは2月26日の、いわゆる二・二六事件であろう。これは陸軍の皇動派青年将
校が武力による政治改革を目指して、下士官や兵を率いて起こしたクーデター事件で
、高橋是清(これきよ)蔵相らを殺害し、国会議事堂や首相官邸周辺を占領したが、
翌日に戒厳令が交付されて、29日に鎮圧された。また、「大日本帝国」という国号
が決まったのはこの年の4月である。
ちょっと変わったところでは、この年の5月に起きた「アベサダ事件」がある。これ
は、愛人を殺して切り取った局部を持って逃走し、二日後に逮捕されたという事件で
あるが、ワイドショーのなかったこの時代でも大騒ぎになったことは間違いなかろう。
さて、この年も松平は好調で、映画主題歌の「人妻つばき」と、伏見信子とのさわや
かなデュエットで「花言葉の歌」をロングヒットさせた。楠の「女の懐旧」や藤山の
「東京ラプソディー」もこの年のヒット曲であるが、ここで取り上げたいのは、みち
奴と渡辺浜子についてである。
〈空にゃきょうもアドバルーン さぞかし会社で今ごろは お忙しいと思うたに あ
あそれなのにそれなのに おこるのはおこるのは「あったりまえ」でしょう〉。これ
は、サトウハチロウ作詞古賀政男作曲の「ああそれなのに」であるが、帰宅の遅い夫
をそわそわ・いらいら待ちわびる夜更けの若妻の気持ちを、当時19歳のみち奴が、
その独特の声と節回しで見事に歌い上げてこの年の大ヒット曲になった。その後も「
うちの女房にゃ髭がある」「細君三日天下」などで連続ヒットを放った。時節柄彼女
も「軍国の母」など戦時歌謡を何曲も吹き込んでいるが、それらはほとんど評判には
ならなかったらしい。
〈月が鏡であったなら 恋しあなたの面影を 夜ごと映して見ようもの そんな気持
ちでいる私 ねぇ 忘れちゃいやよ 忘れないでね〉。これは、渡辺はま子の「忘れ
ちゃいやよ」であるが、恋娘の心情を控えめに可愛く歌って、この年の代表的な流行
歌になった。ところがである。最終行の〈忘れちゃいやよ〉の部分を、彼女は「いや
っあよ」と、ほんの少し甘えるようなアクセントをつけてうたった。そのことがやぼ
天検閲官の耳障りになったらしく、「時局柄こういう歌い方はふさわしくない」との
理由で、発禁となり、今度は「月が鏡で」のタイトルで、二番煎じよろしく再発売し
たが、柳の下に二匹目のドジョウはいなかったらしい。
以下に、「チャイナメロディーのおはまさん」の異名をもつ渡辺の主なヒット曲を列
挙するが、軍歌や戦時色の濃すぎるものは割愛する。その中に、あの日・あの頃の何
曲かに読者の琴線に触れるものがあれば、しばしその思い出をたぐり寄せてみていた
だきたい。
「忘れちゃいやよ」「とんがらがっちゃだめよ」(いずれも11年)、「愛国の花」
「支那の夜」(いずれも13年)、「愛しあの星」「ホーリーチンサイライ(君いつ
帰る)」(いずれも14年)、「蘇州夜曲」(15年)、「雨のオランダ坂」(22
年)、「シスコのチャイナタウン」(25年)、「あぁモンテンルパの夜は更けて」
昭和12年(1937年 今からちょうど70年前)7月7日は、北京郊外の盧溝橋
付近で日本と中国の軍隊が衝突した。これがいわゆる「盧溝橋事件」で以後、8年余
にわたる泥沼の日中戦争のきっかけになったのである。やく20万人が殺されたとも
いわれる「南京大虐殺」があったのは、この年の12月のことである。国内では、日
本キリスト教連盟が「時局に関する宣言」を出して、国策に協力することを明らかに
した。また、千人針(1枚の布に、千人の女性が赤い糸で一針ずつ縫い、千個の縫い
玉を作って、出征兵士の武運長久を祈って贈った布)や慰問袋(出征軍人などの慰問
のために手紙・日用品・娯楽品などを入れた袋)がこの年のブームになった。
そんな時局を反映して、軍歌や戦時歌謡も多数作られたはずであるが〈勝ってくるぞ
と勇ましく〉ではじまる、古関裕而作曲の「露営の歌」は広く歌われた。
12年の流行歌で現在手元にあるのは39曲であるが、その中には戦後も長く愛唱さ
れた歌も数曲あるので、それらを中心に少し触れておきたい。
霧島 登は「赤城時雨」でデビューを果たし、昭和5年のデビュー以来ヒットに恵ま
れなかった淡谷のり子は「別れのブルース」を歌って、「ブルースの女王」としての
基礎を固めた。
プロ野球選手への夢を捨てきれなかった上原 敏は「妻恋道中」「裏町人生」の連続
ヒットで、一気にスターダムにかけ昇った。また、東海林太郎は人気女優田中絹代の
せりふ入りで「隅田川」を歌って、好調ぶりを見せつけた。
藤山が「青い背広で」をヒットさせたのもこの年であった。また、この年には作曲家
でもあった林 伊佐緒と新橋みどりのデュエットで「『もしも月給が上がったら」を
ヒットさせ、これが歌手としての林の代表的な1曲となる。
これは昭和30年頃の寄宿舎の誕生日会での話であるが、僕が司会者として何かの理
由で、昨年2月に亡くなられた、谷 啓悟さん(33年卒)を指名したことがある。
彼は快く立って〈もしも月給が上がったら 私はパラソル買いたいわ 僕は帽子と洋
服だ〉と、高らかに歌い上げて満場を喜ばせてくれたものである。懐かしいそんな思
い出を胸に、谷さんのご冥福を祈り続けたい。
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