ふと思ったこと(その7)


 今回は、昭和13年(1938年)から終戦の昭和20年(1945年)までの、

戦時下における流行歌について、手元の資料に僕の頼りない記憶を重ねて少し書いて

みたいと思う。

前年の昭和12年(1937年)7月7日に始まった日中戦争は、ますます泥沼の様

相を深め、一方ヨーロッパでは、昭和14年(1939年)9月1日、ドイツ軍がポ

ーランドに侵攻したことで第二次世界大戦の火蓋が切られた。そして、昭和16年(

1941年)12月8日、日本軍はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を空襲して

、米英を相手に、無謀にも「太平洋戦争(東条内閣は『大東亜戦争』と命名した)」

へと突入した。

最初の奇襲作戦の成功で勢いのよかった日本軍は、半年後の昭和17年(1942年

)6月5日のミッドウェー海戦で、4隻の空母を失ったことが選挙区の転機となり、

翌18年2月には、ガダルカナル島からの撤退、19年(1944年)6月には、サ

イパン島の守備隊3万人が玉砕した。これによって日本の敗戦は決定的となったわけ

であるが、その後、昭和20年(1945年)8月15日の終戦に至るまでの経過に

ついては歴史の教える通りであり、ここでは割愛する。

さて、13年に入っても上原敏(びん)は好調で、この年に青葉笙子(しょうこ)と

歌った〈堅気暮らしも重なる旅に いつか外れて無宿者(もの)〉と歌い出す「鴛鴦

道中(おしどりどうちゅう)」は、戦後も長く愛唱された。また、〈拝啓御無沙汰し
ましたが 僕もますます元気です〉で始まる「上海だより」は、立派な戦時歌謡には

違いなかったが、東海林太郎の「麦と兵隊」とともに大人から子供にまで広く歌われ

ていたことは、当時4歳であったぼくの記憶にもくっきり残っている。

しかし、この年を代表する流行歌といえば何と言っても、松竹映画愛染かつら(あい

ぜんかつら)の主題歌で、霧島 昇とミス・コロムビア(本名松原 操)がデュエッ

トで吹き込んだ「旅の夜風」を真っ先に取り上げねばなるまい。

〈花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるなほろほろ鳥よ 月の比

叡を独り行く〉。この歌は50歳より若い人でも、一度や二度は耳にされたことがあ

ると思う。映画の空前のヒットの要因は、川口松太郎の原作の良さと、上原 謙、田

中絹代という二大スターの人気もさることながら、主題歌の大ヒットが、与って力に

なったと言われている。霧島と松原は、この歌が縁結びとなり、翌14年、山田耕筰

夫妻の媒酌でめでたくゴールインすることになる。

この年は渡辺はま子の「支那の夜」もヒットしたが、同じ大陸ものでも、服部良一の

妹、服部富子が少女のように可愛く歌った「満州娘」の〈ワンさん待っててちょうだ

いね〉というフレーズが、幼い子供たちの間にまで広まったことが思い出される。

昭和14年(1939年)に入ると、岡 晴夫が「国境の春」でデビューを果たし、

続いて「上海の花売り娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばして一躍スターとな

った。

相前後して田端義夫も、デビュー曲「島の舟歌」に続いて〈あれを御覧と 指差す方

を〉と歌い出す「大利根月夜」や「里恋峠」などの連続ヒットで、たちまちスターの

座に駆け上がった。

岡は、バイオリン演歌の桜井敏雄の弟子として、浅草や上野辺りで流しをしながら歌

の勉強を続け、昭和13年に親友で作曲家志望の上原げんとと共に、自薦でキングレ

コードへの売り込みにそろって成功したのである。

一方田端は同年、ポリドールの歌謡コンテストで優勝して、レコード歌手としての切

符を手にした。

それまでの流行歌手は、音楽学校で正規の教育を受けた者か、芸妓出身者が中心であ

ったから、岡と田端は、上原 敏に続いて、アマチュアからプロ歌手になった、当時

としては珍しい例といえる。

現在僕の手元にある40曲のなかから、14年のヒット曲を、以下に列挙しておこう

渡辺はま子の「支那の夜」、ミス・コロムビアの「一杯のコーヒーから」、霧島 昇

と高峰三枝子の「純情二重奏」、由利あけみの「長崎物語」、東海林太郎の「名月赤

城山」。

昭和15年(1940年)にも、戦争を越えて長く愛唱された名曲が生まれている。

手元の34曲のなかから何曲かを、いささかの独断と偏見を交えてピックアップして

みたい。

「『胸の痛みに耐えかねて』の1行が良くない」と、発禁処分を受けても、密かに広

く歌われた高峰三枝子の「湖畔の宿」、霧島 昇の「誰か故郷を思わざる」、霧島と

渡辺はま子の「蘇州夜曲」、霧島と二葉あき子の「新妻鏡」、霧島とミス・コロムビ

アの「目ン無い千鳥「、灰田勝彦の「燦めく(きらめく)正座」、田端義夫の「別れ

船」、伊藤久男の「お島千太郎旅唄」などが浮かんでくるが、特に伊藤の「高原の旅

愁」を耳にする度に、いつも僕は小野虎一さん(昭和24年卒)の男らしいバリトン

を思い出す。

昭和16年(1941年)以降のレコード界は、軍歌・国策歌謡・戦時色の濃い流行

歌に席巻されて、股旅物や艶っぽい歌は激減し、僕のテープには24曲しか収録され

ていないが、その中で東海林太郎と弟子の小笠原美都子のデュエット曲「琵琶湖哀歌

」と、小笠原がソロでしっとり聞かせた「十三夜」が大ヒットした。「琵琶湖哀歌」

は、この年の4月6日に琵琶湖で起こった、第四高等学校(現金沢大学)漕艇部の部

員11名の悲惨な遭難事故を悼んで作られた歌である。

〈河岸の柳の行きずりに ふと見合わせる顔と顔〉と歌い出す「十三夜」は、榎本美

佐江の持ち歌と思っている人も多いようだが、実は高知県長岡郡大豊町出身で、今も

忙しく活躍されている小笠原美都子の歌であったことを付け加えておきたい。

昭和17年(1942年)に入ると、戦時色の薄い流行歌は更に少なくなる。それで

も僕の手元の16局の中に、小畑実と藤原亮子の「女系図の歌(湯島の白梅)」、小

唄勝太郎の「明日(あす)はお立ちか」、故久川つるゑさん(昭和15年卒)が大好

きであった「湖畔の乙女」、高峰三枝子が〈言葉もたった一つ いついつまでも〉と

、軽快に歌った「南の花嫁さん」灰田勝彦の叙情的な名曲「新雪」などがあり、この

時代にこんな歌がはやっていたことを確認して、ちょっとうれしくなった。

昭和18年(1943年)の歌で僕が持っているのは5曲であるが、この年の大ヒッ

ト曲といえば、小畑 実と藤原亮子の「勘太郎月夜唄」をおいてほかにないと思う。

〈影か柳か勘太郎さんか〉で始まるこの歌は、東宝映画「伊那節仁義」の主題歌で、

そのファンは多く、今でも時々耳にすることがある。

昭和19年(1944年)から20年の「リンゴの唄」の発売までは、特筆すべき「

庶民的」な流行歌はなかったように思う。


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